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midcentury house(ミッドセンチュリーハウス)
ミッドセンチュリーな平屋、家づくりをサポート
Why
PALM SPRINGS ?
ミッドセンチュリー=(イコール)パームスプリングスというほど、アメリカ人に記憶されているパームスプリングス。
そもそもパームスプリングスの特徴的な家々はどのようにして生まれたのでしょうか。
独創的で、近未来的なビジュアル。それでいて山々や周囲の景色を取り込むような、自然と自分を隔てるものはないようにさえ感じる住空間。
その背景には、パームスプリングスが果たしていたコミュニティとしての役割と、戦前から戦後にかけてのスチール産業やプレハブ工法の発展がありました。
Steel
18世紀後期、鉄の製造方法が画期的に変わりました。
それまでの力に弱い鋳鉄から引っ張りにも丈夫な錬鉄が製造できるようになったことで工業生産も可能になり、駅舎などの大型建造物にも利用されるようになっていきます。
19世紀初頭には波型鉄板が発明され、建築の柱や梁としての鉄の利用も可能になります。1851年大英帝国での万博で作られたクリスタル・パレスなどは構造に大々的に鉄を利用し、プレハブの手法を取り入れたものでした。
アメリカでは1871年のシカゴ大火をうけて建築ブームが起き、シカゴ派と呼ばれる高層ビル建築の先駆者ともいえる建築家たちが活躍。1901年にはUSスチールが創業し、20世紀の鋼の時代を牽引していきます。
そんな中、1910年、ドイツのヴァルター・グロピウスが乾式組立構造を提案。鉄骨柱に規格化されたボード類をはめこむ手法は、近代的な工業生産に対応したプレハブ工法でしたが、実はその提案の背景には、古くから根付くアメリカのセルフビルドの文化と全土に広がる鉄道網があったと言います。
それは、メールオーダーしたプレカット木材や建築キットが米全土に鉄道で
運ばれ、たったの2週間で自分で建てることができる、という驚くべき住宅産業でした。グロピウスはそれをスチールを用いた建築工法(プロによる)として提案したのです。
戦争の荒波にもまれ、アメリカの製鉄業はさらに力をつけていきます。
プレハブ工法が可能でメンテナンスも楽なスチール(鉄骨)ハウスを推進する流れもあり、40代後半にはcase study houseプロジェクトも起こるなど一つのブームのようになっていきました。
元々セルフビルドに馴染みのあったアメリカは、工期が短く安価で家を建てることのできるプレハブ工法を受け入れる土壌があり、当時のスチールの建材としての利用しやすさがうまくマッチ。そこにミッドセンチュリーのモダニズムが加わって化学反応が起こるように独創的で魅力的な家が次々と
生まれていきました。
Palm Springs
ネイティブアメリカンが"Se-Khi" (boiling water)と呼んでいたエリア。
スペインから独立したメキシコがAgua Caliente(hot water)として領地に登録し、その後1848年に協定でアメリカ領になりました。
PalmSpringsという地名は1853年、アメリカの地理調査委員が地図に記したのが初見となり、今に至ります。
1860年代初頭を皮切りに線路が引かれたことで土地開発が盛んになり、地元民はネイティブアメリカンから入植者へと変っていきます。
療養地として熱く乾いた空気が適していたこともあり、ホテルなどの建設がはじまり国内に知れ渡る存在となりました。需要の高まりと共にノイトラなど有能な建築家達もパームスプリングスでの活動を活発にします。
ニューヨークなどに比べると地価も安く広々とした面積を使うことができたパームスプリングスは、アルバート・フレイなど研究熱心な建築家達が新しい工法やデザインを試すのに最適なエリアでもあり、気鋭のモダニストたちは自由な発想で印象的な注文住宅や大きな商業施設、ホテルやモーテル、学校や公共施設を手掛けていきました。
それでも、40年代はまだ富裕層の避寒地としての様相を抜けていなかったとか。
パームスプリングスが大きく花開いたのは第二次大戦後。
爽快な砂漠の太陽を求めて人々の注目が集まると、流行に敏感なハリウッドスター達が続々とやってきます。仕事場からさぼど遠くなく、それでいて解放感とプライバシーの両立した余暇をすごせるこのエリアは彼らにとって最高の場所でした。
スターらによって一年中賑わうようになったパームスプリングスは、住宅やバケーションハウスの需要が一気に高まり、大きな建築市場となりました。
そうして、アレキサンダーなどビルダー達も次々と開発に着手しだしたのです。
ここでご紹介するのは、パームスプリングスエリアで印象的な家を数多く手がけた建築家とその家々です。
一人目は、フレイハウスで有名なアルバート・フレイ。そして、アレキサンダーカンパニーと提携してパームスプリングスのアイコンとも言える家を生みだした、パーマー&クライセルとドナルド・ウェクスラー。
彼らの家に共通するのは、実験的で独創的なビジュアルと、それでいて、綿密な研究によって生み出された快適さや心地よさ。気候は違えど、その家や家づくりに対する考え方は日本のミッドセンチュリーハウスにも参考になるポイントがたくさん見てとれるのではないでしょうか。
Albert Frey
アルバート・フレイ
(1903-1998) スイス生まれ。 1928年からコルビュジエの元で働き、サヴォア邸プロジェクトにも参加していました。 その後渡米し、NYを中心に活動。 1934年にpalmspringsへ移り、亡くなるまでその地で暮らしました。 フレイは後のインタビューで、コルビュジエやミースファンデルローエからの影響を語っています。 特にミースの手がけたバルセロナパビリオンの、壁を外まで伸ばして家を大きく見せるアイディアには大きなインスピレーションを受けたようで、frey house Ⅰではそのデザインが見て取れます。 1932年にはノイトラとシンドラーのオフィスを訪ねるなど、研究熱心な建築家でした。
(1940) houseⅠは屋根とアルミ波板壁、ガラスで構成された簡潔なもの。 壁の使い方にはミースファンデルローエからの影響を色濃く見てとることができます。 内装はパームスプリングスの砂漠やそこに自生する植物、風景などからインスパイアされた色によって彩られていました。
building elements 壁、ガラス、屋根 それぞれからうまれる影 フレイの考察を見て取ることができるスケッチです。
南西からみた外観
(1953) フレイはhouseⅠを大幅に増築・改修します。 そこにはアトミックエイジらしい要素がふんだんに盛り込まれていました。
宇宙船のようなデザインの2階を増設。 寝室として利用していました。
エクステリア
インテリア
(1963) 自然の岩をそのまま建物に組み込んだ有名な家。 太陽の位置を一年かけて観察し、10フィートのポールを立てて影がどのようにできるか調査し建てられたそう。 綿密な下調べと計算によって、ガラスが大半を占めていても快適な採光になっています。 フレイは後のインタビューで、金属などの人工的な素材と岩などの自然物のコントラストの魅力について語っています。 岩を背景にしたとき、鉄はドラマティックに見える、と。 その集大成とも言えるのが、このfrey house Ⅱなのです。
荒々しい山に溶け込むような外観。
フレイが実際に記録した太陽の至。
frey house Ⅱの建設現場
Alexander Construction Company
アレキサンダーコンストラクションカンパニー
ジョージ・アレキサンダーとロバート・アレキサンダーはロサンゼルスでの分譲住宅での実績と、最先端の建築に対する強い探究心を携え1955年にパームスプリングスへとやってきました。
それから10年ほどで、アレキサンダー親子は2500を超えるモダンな住宅を建設し、パームスプリングスの姿を変えました。
それは後に、「彼らのビジョンによって、パームスプリングスという町の景観や開発の指針が方向づけられた。贅沢なコミュニティや質の高い家はハリウッドスターだけでなく中流階級の人々でも建てることができると信じていた彼らによって、パームスプリングスはただ成長したのではなく、より堅実でバランスのとれた方法で成長したのだ。」と評価されるものでした。
Alexander Construction Companyは若く有能な建築家を登用しました。それが彼らの成功のカギとなったことは言うまでもありません。
次でご紹介する建築家は、アレキサンダーと共にパームスプリングスの顔を作り上げた若く情熱に溢れた建築家たちとその功績です。
惜しくもアレキサンダーは道半ばにして不慮の事故で亡くなってしまいましたが、彼らの遺した家々はいまもパームスプリングスの顔として多くの人々に愛されています。
William Krisel & Dan Palmer
William Krisel
ウィリアム・クライセル
1824年、上海に駐在していた外交官の子供として生まれたクライセルは、戦争のあおりをうけて1837年にアメリカへ帰国しビバリーヒルズへ転居します。
大学は南カリフォルニアの建築科へと進み、世界大戦で一時中断するものの卒業。地元の建築事務所で多くの住宅建築に携わりました。
butterfly roof
バタフライルーフ。その名の通り、蝶のような形の屋根。目を引く形は多くの人の心を捉え、当時から今まで、パームスプリングスハウスのアイコンとなっています。
アレキサンダーカンパニーとパーマー&クライセル事務所によって生み出されたこの形は、ビジュアルの斬新さだけが売りではありませんでした。
一年中太陽の光がさんさんとふりそそぐパームスプリングスにおいて、日光をどのように取り入れるかは家づくりの最大のポイント。
バタフライルーフは、外に向かって左右がせり上がっていく屋根のラインで高い位置に窓をとることができた為、直射日光は入りにくくそれでいて明るさをたっぷりと取ることを可能にし、通りに面した寝室への視線も遮ることができる実に理にかなった形でした。
そういった実用性もあり、彼らの手がけた分譲住宅ではほとんど
どの区画でもバタフライルーフが採用されています。twin palmsやlas palmas、その後に開発されたracquet clubではバタフライを含む数パターンの屋根を選ぶことができました。
prefabrication
プレハブ工法
彼らの分譲住宅はターゲットを中流階級に設定していました。
そのため、いかにコストを削減するかも大きな課題としてあり、クライセルも深い洞察でその課題に取り組んでいます。
住空間は基本的に1200~1600スクエアフィートの正方形で、基礎の上に規格木材を利用してポスト&ビーム工法で建てられました。
作り付けの収納は現場で作られ、引き戸を採用していました。
それも金具の費用を削減するための工夫の一つだったと言います。
また、初期の家では断熱を入れず大幅にコストを削減しています。これは、パームスプリングスの気候をふまえてのことでした。
土地や気候にあわせて要るもの・要らないものをしっかりと考察することで、住み心地の良さとデザイン性を追求しつつ、費用を抑えることに成功した彼らの分譲住宅。
その価値が認められ、売り出し当時は19000ドルだったものが現在では1.3ミリオン$まで価値が上がっています。
Donald Wexler
ミネソタ州生まれ。ノイトラに憧れ、カリフォルニアのオフィスを訪問したウェクスラーは、その場で図面を書くよう言われ、その出来に感じるものがあったノイトラに仕事を提供してもらいます。
その後パームスプリングスに移り、ウィリアム・F・コディのオフィスで働き、着実に力をつけていきました。
間もなくして同僚のハリソンと共に事務所を立ち上げると、校舎など多くのプロジェクトを手掛けます。
そんな中、1960年にアレキサンダーコンストラクションカンパニーがオールスチールハウスのプロジェクトを持ちかけます。
ドナルド・ウェクスラー
壁はライトゲージの亜鉛メッキスチール、中空の石膏ボード、断熱ファイバーグラス、ドライウォールで構成。9×36フィートの中央の空間にはキッチン、バスルーム2つ、ランドリールーム、廊下、配線や配管の空間が含まれていて、それを囲むように各部屋が配置されました。
規格のスチールパネル(もちろん基礎のテンプレートに合うサイズ)は連結しボルトで固定。そこに壁と同様のライトゲージスチールの屋根( MARKⅠ~Ⅲのパターンがありました)が重ねられ、中央の空間と外側の耐荷重スチール壁で支えられ、壁と同様にボルトで固定しました。
工期を短くしてコストを抑えるプレハブ工法を採用したスチールハウスは、外側の構造的な組み立ては3日でできあがったそうです。
スチールハウスは木造と違い熱や反り、膨張、腐敗やシロアリ、地震や火事などを気にせずに済む、ローメンテナンスな家として売り出されました。
7モデルのうちの最初の3つの家は1961年後半頃に着工し、1962年の3月に公開されています。価格は13000ドル~17000ドルの間で、モデルハウスにはArthur Elrodの家具が揃えられていたそうです。
Steel Development House
1962年、ドナルド・ウェクスラーは砂漠に適した手ごろな価格のオールスチールプレハブハウスを導入しました。このプロジェクトはアメリカ最大の製鉄会社U.S.スチールがスポンサーとなり、施工技術者はBernard Perlin、ビルダーはAlexander Construction Companyでした。
この家は主にスチールとガラスでできていましたが、それよりも彼らのアプローチが秀逸だったのは、校舎を作るようなプレハブ工法で生じるデザインをスタイリッシュなものに昇華し、中流階級の人々のカスタムハウスのようにしたところにあります。
ウェクスラーによる家のアイコンにもなっているギザギザのルーフラインは、モダンなだけでなくラグジュアリーな雰囲気も感じさせ、プレハブのローコストハウスとは思えない佇まいになっており、その魅力は現代でも色褪せることがありません。
7棟作られたうちの1つ
パームスプリングスのヒストリックサイトにもなっている。
ミッドセンチュリーハウスの視察で宿泊したスチールハウス。フラットルーフのタイプ。
どの家も、通りからはプライベートエリアをうかがい知ることはできない。
間取りはいたってシンプル。中央にキッチンや水回り、配管などが集約されて、その周囲に各部屋が配置されている。
玄関を入って正面がガラス張りに。
外部からの視線は岩壁でブロック。大きなガラス面で開放感がある。
postwar inflation
戦後、1960年にかけて鉄鋼業界ではストライキ、大幅な賃上げ、鉄の価格引き上げというパターンが続いていました。そのあおりはスチールのプロモーションの為でもあったはずのスチールハウスにも波及しました。
Steel Development Houseの7棟目が建てられた直後に鉄の価格が高騰。ビルダーのアレキサンダーがプロジェクトから降りてしまい、予定していた38棟のほとんどが幻となってしまったのでした。
70・80年代はポストモダンの流れになりスチールハウスは忘れ去られ、荒廃の一途をたどっていたと言います。その後90年代に再びその魅力が再認識されるようになり、建てられた7棟のうち6棟はオリジナルを尊重してレストアされました。
そして、2001年にはパームスプリングスのClass 1 Historic Siteに、2012年にはHouse No.2がアメリカの重要文化財に登録され保存されています。