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愛知県名古屋市中区大須1-4-7
midcentury house(ミッドセンチュリーハウス)
ミッドセンチュリーな平屋、家づくりをサポート
Eichler
+ 6
アイクラーホーム
アイクラーホームズは1940年代末~70年代にJoseph Eichler(ジョセフ・アイクラー)を中心に宅地開発を行っていた、
日本でいうところのハウスメーカー。
日本での認知度も徐々に高まってきていますが、現地では市やファンである住まい手によって保護され、文化財のような立ち位置になっている住居です。
家の特徴は、まず平屋であること、外の自然と家の中との境界があいまいであること、
公道などパブリックスペースに対しては閉鎖されている一方、プライベートエリアに対してはガラスを多用して開かれた空間になっていること。
その他にも、アトリウムと呼ばれる中庭があったり、アースカラーの外壁に対しエントランスドアは色味のあるものが採用されるなど
アイクラーの哲学が随所にちりばめられています。
アイクラーの名を冠していることもあり、その功績はJoseph Eichlerその人のものとして捉えられがちですが ― もちろん彼の強い信念と情熱なくしてはアイクラーホームズは存在しえないのですが―、アイクラーホームズの成功には欠かすことのできない男たちがいたのをご存知でしょうか。
その男たちとは、A.Quincy JonesとEmmons、Claude OaklandとKinji Imada、Anshen と Allenの6人。
彼らはそれぞれアイクラーと共に仕事し、数多くの"アイクラーホーム"を生みだしました。
クインシーは40年代からパームスプリングスエリアで活躍していた建築家。
Paul R.Williamsと共にパームスプリングステニスクラブ(1947)などを手掛け、ケーススタディハウスプログラムにも参加するなど、ミッドセンチュリーモダン建築の第一線で活躍していました。
クインシーは1950年に建築雑誌の賞を受賞したのをきっかけにアイクラーと親交を深めます。
彼の「分譲開発と緑豊かな環境の共存や融合」というコンセプトとアイクラーの目指すコミュニティの形が一致。旧知の建築家エモンズ(Frederick Emmons)とタッグを組み、5000近くものアイクラーホームをデザインしました。
クインシー・ジョーンズ。ケーススタディハウスプログラム(#24)にも参加。斬新なコンセプトでしたが実際に建てられることはなかった。
クインシーによるアイクラーホームによく見られる、切妻屋根。
アトリウムを備えた切妻屋根のプラン。
三角屋根にして扉の向こうへ視線を通すことで、「通りに対して閉鎖的すぎる」という外部からの批判をやわらげた。
1956年10月のSunset誌から。 プロモーションハウス。テストが終了すると売却され、その後初代オーナーの知人である女性が購入し、オリジナルを維持しながら住んでいるそう。
sunsetの他にもArts&Architectureなど多くの全国紙に取り上げられ、来場者は15万人にものぼったとか。
展示中のX100にはハーマンミラー社製の家具が入っていたそう。建具や備え付けの家電も最先端のものが採用されていた。
この頃はまだアトリウムのあるプランはうまれていない。
1956年発表のアイクラーホームズX-100プランなどJones&Emmons事務所の仕事から着想を得たアイクラーホームもあります。
X-100はスチールの建材としての可能性を探るテストハウスとして、またアイクラーホームズの新たなプロモーションハウスとして建てられ、当時の最先端家電を内蔵した未来の家でした。
その近未来的な外観や設備と同時に、自然な光や気持ちのいい外気、インドアガーデンなどを取り入れた住み心地の良さも追及した設計は、アイクラーホームの新しい形として称賛されました。
クインシー達は、アイクラーホームズのアトリウムプランが閉鎖的だと批判にあったときには、切妻屋根や格子のデザインを取り入れるなどアレンジを施し、より多くの人に受け入れられる家をデザインしていきます。
エモンズは69年に引退してしまいますが、クインシーの貢献はアイクラーが亡くなる1974年まで続き、1969年にはAIA(The American Institute of Architects)によって建築事務所に送られる最高の栄誉、The Architecture Firm Award を受賞しました。
A.Quincy Jones & Frederick Emmons
Bob AnshenとSteve Allenによって設立された建築事務所。彼らはペンシルバニア大学の建築科で出会いました。卒業後それぞれ旅に出、その後1937年にカリフォルニアに拠点を構えます。
チューダーゴシック様式のデイビスハウスや戦後のガソリンスタンドの設計などを手掛け、当時はまだそれほど大きな事務所ではなかったものの、カリフォルニアで目立った存在として注目されていました。
1950年代初頭、アイクラーにモダンスタイルの住宅を設計してほしいと依頼され、彼らのアイクラーとの仕事がはじまります。その後1962年までアイクラーホームズなどに分譲住宅を設計提供しました。
中には、あのアップル社の創業者スティーブ・ジョブズの育った家として有名な家もあります(アイクラーホームではありませんが)。
彼らの事務所は独立前のクラウド・オークランドが務めていたり、学生時代のキンジ・イマダが訪ねてくるなど(後述)アイクラーホームズの発展には欠かすことのできない存在でした。
アイクラーホームズの特徴のひとつとして言われるアトリウムも、ボブ(Anshen)の発案として認識されています。
実際は、ボブやスティーブ(Allenn)やオークランドらで行われたディスカッションで自然発生的にうまれたアイディアだそうですが、それを取りまとめてアトリウム(古代ギリシャやポンペイにみられる)という言葉を当てはめたのがボブというところでしょう。
また、アトリウムという言葉を用いる以前にもAnshen&Allenは"コート"を備えたプランをいくつか発表しています。
1951年のplan37や56年のplan E-5はアイクラーホームズにおけるアトリウムの定義に一致しています。
57-58年に彼らが発表した正式なアトリウムプランはインドア・アウトドアを見事に体現していました。
通りに対して閉鎖的な間取りは批判もあったものの、一歩中に入ると庭と自分を隔てるものがないように感じられる光に満ちた家は好評で、アトリウムのないプランを販売するのが困難なほどだったと言います。回遊性も良いそのプランは、その後のアイクラーホームズの基礎となりました。
アトリウムはまだ無かったものの、インドアーアウトドアは初期の頃から特徴のひとつとして取り上げられていた。
寝室、 リビング後方のloggia (回廊)、ガレージ、エントリーホールに囲まれたcourtは、”atrium"とも呼べるプランだった。
アトリウムが取り入れられた最初のプラン。 このプランをアイクラーはこう説明した。 「ほとんど窓のない正面の玄関を入ると、再び外になって空から明るい光が差し込む。そのアトリウムを通って、一面ガラスの明るい室内(リビング)に入り、再び外のバックヤードに抜ける。これは最も短くて楽しい旅だ。」
スティーブ・ジョブズが暮らしたとされるAnshen&Allenが手掛けた家。 アイクラーホームズの物件ではないものの、建築家が同じこの家はアイクラーホームによく似て(ライクラーホーム)いる。
アトリウムやそれに面したリビング、プライベートエリアをぬける細長い廊下などがアイクラーホームズのスタンダート。
通りからは、中の開放感をうかがい知ることはできない。
Anshen& Allen
上記の4人がアイクラーの家への理想を体現したのに対し、オークランドとイマダはそれに加えてアイクラーの情熱をも共有したパートナーでした。
3人とも、人種や国にとらわれない万人のための家を作ることに情熱を傾けていたのです。
日系アメリカ人として生まれたキンジ・イマダは、日本人コミュニティの中で育ち、日本人の道徳心や礼儀正しさに誇りをもっていました。
第二次世界大戦の波が押し寄せてくると、家族と共に日系アメリカ人抑留キャンプへ連行され、そこで高校を卒業します。戦後も使用人として働く先で窃盗を疑われるなど偏見は続きます。
その後彼はGIビルを取得するために米軍に従事。米軍の一員として来日し、自身のルーツである広島を訪問しますが、彼の祖父母は原爆によって亡くなっていたのでした。
同じアメリカで生まれ育ったにも関わらず、日本人として差別や偏見に苦しみ、そしてルーツである日本の状況を目の当たりにしたことによって、イマダの中に民族を超えた自由主義的な考え方が芽生えます。
退役後GIビルを利用して大学に進学したイマダは、ハーバード大学で近代建築の四大巨匠であるヴァルター・グロピウスに師事します。
52年にフィールドワークに出、翌年からAnshen&Allenのインターンシップを通じて、後にパートナーとなるオークランドやベイエリアのモダン建築家達と親交を深めました。
1960年にオークランドに誘われ事務所を立ち上げると、その後はオークランドを支える"the details man"としてアイクラーとの仕事を中心に手掛けていきます。彼の素材への造詣の深さは、アイクラーホームズの成功には不可欠だったそうです。
アイクラー以外との仕事もしていたイマダですが、最もやりがいを感じていたのはやはりアイクラーホームズの仕事でした。
アイクラーやオークランドと同様に、彼自身も「モダン建築は民族を超えて多くの人に手ごろな価格で家を提供できる」という強い信念や情熱を持って仕事に取り組んでいました。
同じ情熱をもったオークランドとイマダによるデザインはアイクラー自身も気に入ることが多く、アイクラー夫妻が晩年過ごした家はオークランドが設計したプラン34のアトリウムを盛り込んだ家をアレンジしたものでした。
オークランドはアイクラーと最も長く仕事をした建築家ではないでしょうか。
独立前にはAnshen&Allenのもとでチーフデザイナーとして、1960年の独立後(アイクラーに勧められてのことでした)はキンジ・イマダと二人三脚で、1950-74年の間に5000棟にのぼるアイクラーホームを手掛けていきました。
オークランドはスウェーデン移民の父を持ち、人種差別の残る南アメリカで育ちました。彼は大学で建築学を学んだ後、第二次世界大戦で南太平洋に赴き、建築家のBruce Goffと出会います。彼は戦後帰国しても故郷に戻ることはありませんでした。
アイクラーと同様に情熱的な自由主義者で、人種差別に嫌悪感を抱いていたのです。
Goffの事務所を出るとサンフランシスコのAnshen&Allenで働き始めました。そして、アイクラーと仕事をするようになり、イマダと出会います。
ガレージ横にカーポートを備えたプラン。アトリウムへのエントランスが奥まっていて、よりプライベート感がでている。
OJ同様カーポート脇をぬけてエントランスになるプランだったが、リノベーションによって通りに対して完全に閉ざされている。
切妻屋根が差し込まれたようなプラン。アトリウムの他に初期の頃にあったようなloggia(回廊)もある。
4枚目のリノベーションとは対照的に、こちらはアトリウムの面積を広げて通りに対して大きく開いた作りに。すりガラスでプライベートはしっかりと確保されている。
Claude Oakland & Kinji Imada
彼らはそれぞれが単独でアイクラーとの仕事だけに専念していたわけではありません。自身の事務所としての仕事や、アイクラーとの仕事、アイクラーと関わる他の建築家達とのディスカッションなどを同時進行的に進めていました。
それによって、アイディアやプランにより磨きがかかり、後世に残る"アイクラーホーム"がうまれていったのです。
同時期に活躍するミッドセンチュリーモダンの有名建築家のように誰もが知る存在ではない彼らですが、国や宗教にとらわれず"人"に寄りそった建築をした存在として、その居心地のよい家を通じて多くの人の心を今なお魅了しています。