052-222-7111
愛知県名古屋市中区大須1-4-7
midcentury house(ミッドセンチュリーハウス)
ミッドセンチュリーな平屋、家づくりをサポート
Only 50-60s?
There was
The International Style .
ミッドセンチュリーにモダニズム建築が大きく花開く以前、その土壌となるような建築家達の活躍がありました。
20年代から50年代初頭に活躍した建築家は、現役で活躍する前世代の巨匠たちと直接やりとりする機会が数多くありました。
偉大な巨匠たちの胸をかりてモダニズムに取り組んだ若い彼らは、その後自身も経験豊かで魅力あふれる建築家になっていきます。
ここで紹介するのはそんな建築家のひとりである、フィンランド出身のAlvar Aalto、オーストリア出身のRichard Neutra、アメリカ出身のPhilip Johnsonの3名です。
Richard Neutra
Alvar Aalto
Philip Johnson
1923
アメリカ移住
F.L.ライトのもとで働く
1926
ロサンゼルスで開業
1928
CIAM(近代建築国際会議)参加
グロピウス、ミースファンデルローエ、
コルビュジエ
この頃ミースに面会
1929
Lovell Health House
1930
トゥルン・サノマト新聞社
MOMAキュレーターに就任
1932
近代建築展で紹介される
近代建築展"MODERNARCHITECTURE: International Exhibition"
をMOMAで開催
1933
VDL Research House
タンメカン邸
1935
アアルト自邸
1940
マサチューセッツ工科大学で教鞭をとる
ハーバード大学に再入学
学生と規格住宅の研究をし、ゆくゆくは最新の工業技術を用いてフィンランドで近代的な住宅実験をしようと構想
1946
カウフマン邸
MOMAキュレーターに再任
1947
ミースファンデルローエ展開催(MOMA)
1949
Robert Evans Alexanderと提携
ガラスの家
dining
巨匠グロピウスの下で学んだ
The Harvard Five(John Johansen, Marcel Breuer,Landis Gores,Philip Johnson,Eliot Noyes)の
New Canaanでの活動の一環。
1965
VDL Research House 2
アホ邸
アカデミア書店
1961
パキスタンのアメリカ大使館
アレキサンダーと提携をしたノイトラは公共施設などを数多く手がけた
ロヴァニエミの行政・文化センター
ハーバード大で哲学を専攻
父から譲り受けた株が高騰。それを元にヨーロッパの古典から近代まで建築を巡ったり、その後のMOMAキュレーター就任の後押しとなる。
近代建築展で紹介される
書籍より
ノイトラはオーストリアのウィーンに生まれました。芸術の都であるウィーンには、クリムトやオットー・ワーグナーなど画家や建築家が多く住み、彼らの才能や優れた芸術は身近なところにありました。
ノイトラ少年も、ワーグナーの手がけた駅舎や橋を渡って感銘を受けたといいます。
1910年に産業技術大学に入学し、Adolf LoosやOtto Wagnerに学びます。
同時に、5歳上のシンドラーとも出会い、親交を深めました。シンドラーは卒業後すぐに渡米し、フランク・ロイド・ライトのもとで4年ほど働いています。
ノイトラは戦争の影響でヨーロッパに残りますが、その間に戦争による混沌と再構築の必要性を身をもって体感したノイトラは「任意」を除外したシステムの構築に興味を持つようになりました。
1923年に渡米後は、シンドラーと同じくライトのもとで働き、26年にはロスで独立します。
1929年、Lovell Health Houseを手掛け、32年にはフィリップ・ジョンソンの手がけた近代建築展で紹介されるなど、モダニズム建築の次世代の巨匠としての評価を高めていきました。
しかし、ノイトラにとって最も優先すべきはシステムでもスタイルでもありませんでした。彼の建築においての最優先事項は「人」そのものであり、人と自然を調和させるのが家であると考えました。
家は"膜"であって"シェルター"ではない。
詳細なアンケートを実施し、施主にとって
本当に必要なものを見極め、芸術や景観と
実用性、快適性を融合させたノイトラは
ロヴェル邸などでそれを表現し、アメリカにおけるモダニズム建築の礎を築きました。
「庭は部屋と同じように家の一部なのだ。庭から部屋へのステップが、道路から庭へ(アアルトの言うところの玄関)のようなきついコントラストにならないようにしよう。」
自然と人工物や外と内の相互作用がアアルトのデザインテーマでした。
それでも、フィンランドの冬の厳しい気候は受け入れなくてはなりません。
考えを巡らせたアアルトは、外の世界にむけた美しい顔(外観)と、インテリアデザインを重視
した顔 ― 家にこもる冬の顔 ― の2つの顔を家に持たせることで、自然と家の調和を生みだしました。
アアルトの初期作品は北欧古典主義でしたが、1920年代後半から合理主義的なアプローチを模索するようになり、CIAM(近代建築国際会議)に参加してますます傾倒するようになります。
しかし間もなく合理主義に人間的なアプローチを加えはじめ、モダニズムと古典が調和した設計がアアルトの傑作として生まれました。
戦争によって自身の研究や模索ばかりに専念できなくなるものの、アアルトの情熱は途切れることなく、戦後も公共施設を手掛ける傍ら個人宅にも取り組んでいました。
巨匠としての立ち位置ゆえ、クライアントが富裕層ばかりのように思われますが、彼自身は「小さな人」や「最も弱い立場の人」と呼んだ富や権力のない人々こそ建築家の究極のクライアントだと言っています。
自然環境や財力、時には世界情勢にも左右されてしまう建築において、合理的な判断や直感、現実と理想を組み合わせることこそアアルトが得意とした能力でした。
そして、その能力は小さな人の小さな家から万人向け公共物まで発揮されたのです。
生まれ育った場所も活躍したエリアも異なる3人。それぞれが時代の変化の中で建築の目指す姿を模索し、探求していく中で生まれたモダニズム建築。現代でも色あせるどころか魅力を増し続ける存在となりえているのは、人と建築と自然のあり方を深く考察し追求した結果だからなのかもしれません。
全く同じものは作れなくても(むしろ彼らはそれを良しとはしないでしょう)、彼らの哲学やアプローチを取り入れることで、現代の新築でも自然と建築と人が調和するような家が作れるのではないでしょうか。
裕福な家庭で生まれ育ったフィリップは優れた建築家として活躍しただけでなく、モダニズムをアメリカに広める大きな役割を果たしました。
最初の在学中に巨額の富を手にした彼は、同じハーバードOBであるアルフレッド・バー(MOMAの初代館長)やヘンリー・ラッセル・ヒッチコックと出会います。
アルフレッドの誘いでMOMAのキュレーターに就任した彼は、ヒッチコックと共に企画ヒントを得るためドイツへと赴きました。
帰国後、1932年に近代建築展を開催しヨーロッパを中心としたモダニズム建築を紹介。アアルトやノイトラを紹介しています。
その後これらの建築様式はinternational styleと定義されました。
30年のドイツ旅行時にヒトラーに感化されていたフィリップは1934年にキュレーターを辞職し、ファシズムの政治活動に専念。しかし40年に入ると再びモダニズムに対す情熱が湧きあがり、ハーバード大学に再入学し、ドイツから亡命していたグロピウスのもとで建築を学びました。
46年には再びMOMAのキュレーターに就任し、47年には「ミース・ファン・デル・ローエ展」を開催。アメリカで初めて彼を紹介し、その活動に助力しました。
もちろん、優れたモダニストを紹介・サポートしただけではありません。ハーバードで出会ったブロイヤーやノイエスらと共にコネチカット州の New Canaanでハーバード・ファイブとして建築活動を行い、1949年には自邸となるガラスの家を建築しています。
80年代になるとポスト・モダンの流れに身を置いたフィリップですが、亡くなったのはモダニズムの傑作であるガラスの家でした。
好奇心や探究心、自分の美学やその時の直感を信じて突き進んでいったようにみえるフィリップ・ジョンソン。
彼の審美眼や先端を行くセンスによって、モダニズムの土壌が耕されつつあったアメリカに新鮮な風が吹きこまれ、USモダニズムが大きく開花したと言えるでしょう。